父の葬儀は、滞りなく終わった。通夜には、父を慕う多くの人々が訪れ、告別式では、長年の親友が、涙ながらに心のこもった弔辞を読んでくれた。出棺の際には、雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。父らしい、立派な、そして温かいお見送りだったと、誰もが言ってくれた。私自身も、喪主として、やるべきことは全てやった、という一種の達成感さえ感じていた。しかし、そのすべてが終わった、次の日の朝。私は、言いようのない、巨大な「心の空白」に突き落とされた。がらんと静まり返った実家。昨日までの、人の気配と線香の香りが嘘のように消え去り、そこには、ただ冷たい静寂だけが広がっていた。祭壇のあった場所には、小さな後飾り壇が置かれ、父は、遺影の中で、ただ静かに微笑んでいる。もう、あの大きな咳払いが聞こえることも、新聞をめくる音を聞くこともない。その当たり前だった日常が、永遠に失われてしまったという、どうしようもない事実が、時間差で、巨大な津波のように私の心を襲ってきたのだ。葬儀までの数日間は、悲しむ暇さえなかった。葬儀社の担当者との打ち合わせ、親戚への連絡、挨拶の原稿作り。次から次へと押し寄せる「やるべきこと」に追われ、私の心は、悲しみという感情に蓋をすることを、無意識のうちに選択していたのかもしれない。しかし、その全ての役割から解放された、葬儀の次の日。守るべきものがなくなった私の心は、何の防御もできないまま、父を失ったという、剥き出しの喪失感に、ただただ打ちのめされていた。これから、どうすればいいのだろう。何を支えに、生きていけばいいのだろう。涙さえ、出てこなかった。ただ、空っぽの心で、遺影を見つめる時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。後から知ったことだが、このような感情は、グリーフケアの世界では、ごく自然な反応なのだという。葬儀という大きな目標を失い、現実と向き合わわざるを得なくなった時に訪れる、深い喪失感。もし、今、同じような心の空白を感じている人がいるならば、伝えたい。その感情は、決してあなただけのものではない。無理に元気を出そうとしなくていい。泣きたければ、泣けばいい。今はただ、その空白の中で、故人を想う時間に、身を委ねていいのだと。
葬儀の次の日感じた心の空白